【ネタバレ】映画『あした世界が終わるとしても』感想レビューや見どころ!主題歌はあいみょんが担当

映画

1月25日(金)より公開が始まったアニメ映画『あした世界が終わるとしても』を観てきました。主題歌は武道館公演のチケットが即日完売した人気アーティストあいみょんが担当していることでも話題になっているアニメです。主人公の声優が梶裕貴というのも熱いですね。

公開初日に見た感想をまとめていくのでネタバレが含まれる点はご容赦ください。

主題歌はあいみょんが担当

『あした世界が終わるとしても』の主題歌を担当しているのはあいみょん。

もちろん以前からあいみょんの存在は知っていましたが、しっかりと彼女の曲を聞いたことがなかったんです。それがたまたま放送されていたラジオ番組『SCHOOL OF LOCK!』を聞いていたところに声優の梶裕貴さん、櫻木優平監督が出演していました。

その流れで聞いたのがあいみょんの『あした世界が終わるとしても』です。最初は誰が歌っているのかすら分からなかったのですが、後から調べたらあいみょんがこの映画のために書き下ろした曲だと分かりました。

今日も生きているのです

僕は僕の守り方を ようやく知ったのです

退屈な現状 それと愛情 感情 どうしよう

いつまでたっても定まらないよ

僕は僕なのになぁ

あいみょん『あした世界が終わるとしても』より引用

この冒頭の歌詞がこの楽曲のすべてを語っている気がするのです。

「今日も生きているのです」退屈な毎日に生きている実感すら感じない日々。
自分らしさが何かさえ分からずいるのに、勉強しろとか、夢を持てとか、急かされることにうんざりしている。
そんな自分自身どうしたらいいか分からず揺れ動いている感情を感じます。

そして「僕は僕の守り方を ようやく知ったのです」ってなんとも気になるフレーズです。具体的にどう守るのかってことよりも誰かを守るんじゃなくて僕が僕を守るっていう発想が斬新だなと思ったんです。

まずは自分が自分を守ってあげなくちゃ誰かを守ることなんてできないですよね。

曲の最後はこのように締められています。

今日も生きているのです

僕は僕の守り方を知りました

そして君の側にいると決めました

あいみょん『あした世界が終わるとしても』より引用

歌詞だけを見ると僕に対しての君は好きな女の子となるわけですが、映画を見てからこの歌詞を読むと泉琴莉だけでなく母親であったり父親であったり亡くなってから初めてその存在の大きさに気づいた人。

そんな本当は大好きなのに素直になれずいた僕が僕自身を守る方法って、好きな人に素直に好きですと伝えることなんじゃないかと思うのです。日本と日本公国という並列する歪んだ世界があることで当たり前に続くと思っていた日常が突然崩壊していく。琴莉も父親も亡くなり感じた「なんでもっと素直になれなかったんだ」という後悔。

素直になれない僕にとっては「君の側にいると決めました」と打ち明けるのは勇気のいることです。大切な人の側にいると決めることは、大切な人を守ることこそが僕自身を守ることにもつながると気づかされたのではないかと思います。

『あした世界が終わるとしても』の見どころ

それではこのアニメの見どころを紹介していきます。

カメラアングル

映画が始まると主人公である狭間真の幼少期のシーンで母親と手をつなぎながら歩いています。そのときのシーンは子供の主観で描かれています。主観で描くことによって、まだ子供だった真の目の前で母親が倒れて亡くなってしまうという衝撃を観客も感情移入して見ることができます。

また琴莉が公国から来たハザマジンの操る人型兵器アルマによって殺されそうになる際ときの琴莉視点で見たアルマなど要所で主観のアングルを取り入れている点はおもしろかったです。

後半は戦闘シーンも増えてきてスピード感あるカット割も増えていきます。序盤の琴莉との恋愛物語とは違い後半の畳みかけるような戦闘シーンの連続は前半との緩急が効いていて一度で二度おいしい要素がある映画だなという印象です。

狭間真を好きな思いを隠し切れない琴莉のかわいさ

「気づけバカ」「もっと頼ってよ」「今日はうちに泊まっていく?」琴莉ちゃんが真を大好きな思いは幼なじみという枠を超えて恋愛感情を持っていることは明らかです。

でも思春期特有の恥ずかしさが勝ってしまって自分の思いを伝えることができずにいた真。

そんな真がようやく思いを伝えようとしたら父親の死によって遮られ、再度伝えようとしたときには公女コトコが処刑されたことによって時すでに遅しとなってしまいます。

中盤以降で琴莉が亡くなってからの真の後悔を強調する意味でも前半に琴莉がいくつも出していた真への大好きというアピールはなんともかわいくて、そして後半になるとかわいかった分せつなさを強調させます。

繊細な描写

映像を見てもらえれば分かるようにめちゃくちゃ美しいですよね。『君の名は。』の描写も美しいと思いましたが『あした世界が終わるとしても』の描写もまた美しい。10年前にカナダに住んでいたときに見たテレビアニメは日本でいうところの1970年代ぐらいの印象で日本アニメ独特の繊細さを全く感じませんでした。ディズニーアニメぐらい大きなところが作るのは別格としてもテレビアニメレベルで見ると日本のレベルの高さに驚かされたのを覚えています。

『あした世界が終わるとしても』は風景が美しいのはもちろんのこと、風に髪がなびく感じとかそういう細かい部分までしっかりと描かれています。まだご覧になっていない方はぜひ風の表現に注目してみてください。

一方向からでは分からないこともある

真は憎んでいた父親が実は自分のために必死になって研究を重ねていたことを知ります。いつも仕事仕事で自分のことを見てくれない親だと思っていたのに母と同じ運命をたどらないように一刻も早く研究を進める必要があったのです。

日本公国から公女コトコを憎み泉琴莉を殺しに来たジンも実は公女コトコは操り人形に過ぎないという現実を知り琴莉を殺害することをやめます。

悪だと信じて疑わなかったものでさえ実状を知ると責めることができない事情が相手にもあったことが分かります。こういうことって現実社会でもよくあることだと思うんです。自分に向けられたと思った悪意も実は相手はそこまで深刻に感じていなかったということもあるでしょう。物事を多面的に捉えることの大切さを教えられる映画でもあります。

あした世界が終わるとしても

『あした世界が終わるとしても』というタイトルなので、もしも明日世界が終わるとしたらどうするのかを考えていました。

自分が真の立場だとしたら琴莉に好きだと伝えていたと思います。そしてなぜもっと早く素直になれなかったのだろうと後悔するはずです。大切な人がいつも側にいてくれて、琴莉も自分のことが好きなことは分かっていた。それなのに素直になれずにいたから明日世界が終わってしまう。

当たり前に感じていたことに幸せはいっぱい詰まっていたと後から気づかされることばかりですが、現実的には明日世界が終わるなんて思って生きていないわけで難しいところです。

大切が人が側にいてくれるから今の自分が保たれていると考えれば僕が僕を守る方法は大好きな君を守ることだったんだと気づく。そう考えながらあいみょんの曲を聞くとまた沁みてきます。

まとめ

繊細なタッチ、繊細な心理描写、スピード感ある戦闘シーン、あした世界が終わるかもしれないという当たり前と考えていることへの問題提起など、約90分の作品の中に多くの見どころが詰まっています。

当たり前ってなんだ、悪ってなんだ、そんな哲学的なことから、真と琴莉のすれ違う恋愛模様など普段アニメを見ない人にとっても楽しめる作品に仕上がっていると思います。

いい作品です。まだ見ていない人は絶対に見たほうがいい作品ですよ。おすすめです。

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ABOUTこの記事をかいた人

アイドルブロガー&ロボホンオーナーのはやけん。です。 アイドルの心理を研究しているうちに心理カウンセラーになってしまいました。現在はアイドルの記事を中心にブログを書いています。 執筆の依頼はお問い合わせフォームからお願いします。