欅坂46の8枚目シングル『黒い羊』のMVが公開されると同時に、その世界観の解釈に多くの議論が巻き起こっています。すでに自分もMVの解釈に関する記事はアップしてあります。
自分は僕(平手友梨奈)はすでに亡くなっていると見ていて、MVの内容は僕の死後の世界と解釈しましたがTwitterを見ていると僕はまだ生きているという意見も多く見られました。そうか、そういう見方もあるのかと気づかされる部分もあったので前回の記事とは違った視点で物語を見ていきたいと思います。
目次
欅坂46『黒い羊』MV考察 平手友梨奈は生きている?
2月27日(水)に発売される8thシングル『黒い羊』のミュージックビデオを欅坂46オフィシャルサイトで公開しました??
皆さま、是非ご覧ください??#欅坂46#黒い羊https://t.co/PR81Pw4w8G? 欅坂46 (@keyakizaka46) 2019年2月1日
僕は生きているという解釈でMVを見ていくというのは自分で書いた記事を自己否定することになるわけですが、今回は完全に生きていることを前提に話しを進めていきます。
0:13~自殺現場を見つめる僕
厳密にいうと自殺とも断定できない映像ですが、おそらく飛び降り自殺の現場でしょう。僕が自殺したと思った理由はその後のMVの展開だけでなくマーキングされた遺体の周りに赤いものが見えるじゃないですか。これは僕が持っていた彼岸花だと思ったわけです。
マーキングされた内側には赤い部分がないことを考えると遺体は仰向けに倒れていたことを意味していて、飛び降り自殺の可能性が高いです。他殺だと前に倒れる可能性もありますからね。
僕は生きていると解釈すると最初の遺体の映像は僕が救えなかった命ということになります。
0:25~僕が感じた無力さ
救えなかった命が僕にとってどういった関係性の人物だったかまでは分かりませんが、その後の展開で僕は苦しむ黒い羊たちを救おうとしてます。僕は自殺という最悪の結末によって僕自身がいかに無力であるかを痛感したわけです。
自殺をしてしまうような子なのだからその後に出てくる尾関、ふーちゃん、しーちゃん、守屋、織田、ゆいぽんへと流れていく絶望的な状況と似たような状況にその子もあったのでしょう。
自殺現場で表現した救えなかった命、もう二度とこんな悲劇は繰り返さないと誓う僕。
しかし、世の中にはさまざまな環境の黒い羊がいる。こんなにも苦しんでいる人を前にして僕は何もできないのか。黒い羊たちは永遠に黒い羊のままでいることが宿命なのか。僕の中での葛藤が始まります。
1:08~僕は決心する
いじめだったり、罵声を浴びせられたり、頭がおかしくなりそうな場面を横目に通りすぎてきた僕もゆっかー(菅井友香)の場面で再び登場します。具体的にいうと1:08前後から始まる病室で家族が亡くなってしまいうつむきながら泣いている子の場面です。
冒頭の自殺現場から始まる救えない命や黒い羊たち。
僕はどうすればいいんだろうと悩んだ結果愛を持って抱きしめるという行為を選択します。亡くなった人を生き返らせることはできないかもしれない。でも僕には抱きしめることはできる。という、今自分ができることはこれしかないんだと決心します。
ただそうはいってもゆっかー、しーちゃんには突き放されているところを見ても、黒い羊たちにとっては「あなたに何が分かるの」と余計なお世話だと言われているようです。たしかに大切な人が亡くなった直後だったりすると愛も素直には受け取れないものなのかもしれません。
1:18~愛を受け入れ始める
ゆっかー、しーちゃんに拒絶された僕は次にゆいぽんのところへ。
女子高生二人組にいじめられて無気力状態になってしまっているゆいぽんを救うために割って入ります。必死になって救おうとする僕。そんな僕からの愛も一度は拒絶するゆいぽん。しかし、僕の必死な叫びに心が動かされたのか僕に抱きしめられてから以降は完全に僕からの愛を受け止めています。
愛への拒絶は本当の意味での拒絶ではなく反射的に拒絶してしまっただけで本当は誰かに助けてほしかったわけです。
そしてゆいぽんを抱きしめているときにはお金が舞い、逃げ惑う人々。
頭がおかしくなるほどのいじめを受けている子にとっては、世の中で価値があるとされている象徴のお金さえも無力で、愛をもって抱きしめてあげるしかないんだと訴えてきているように見えます。
2:15~家庭環境に問題を抱えた子
階段を昇り終えて左折すると大声で言い争っている大人と、その先にいる尾関、織田、上村の3人がいます。
尾関は冒頭にもちょっとだけ登場していて親が相当厳しい環境で育ったことが分かります。織田は親からなのかは分かりませんが何かを言われてパニックになっているシーンがありました。むーちゃんはこのシーンが初登場だったような気がしますが前半て出てないですよね?ぬいぐるみを抱えていることを見ると内向的な印象を与えるので心を閉ざしたタイプなんだろうなと想像します。
ヒステリックになっている大人との対比で表現される無感情な3人。
黒い羊を黒い羊にしてしまっているのって大人なんじゃないかと言っているように思えます。
2:27~今の私を見てくれない親
幸せそうな家族を通り過ぎると写真の前にたたずむ夫婦が見えます。これ幸せな家庭と不幸な家庭の対比であることは間違いないとして、当初写真に写る子は幼くして亡くなってしまったんだと思ったんです。でも幸せな家族の後ろを緑の服を着た女が歩いていて、すぐにフレームアウトしていきます。
写真に写る子は幼い女の子ということは写真の子は緑の服を着た女ということでしょう。服装からして不良っぽくなってますね。
女子高生ぐらいの年齢になって家族との関係がうまくいかなくなり、親は幼い頃の子供ばかりを懐古し今の娘を見ていない。そんな構図にも見えてきます。
ただ17歳18歳の子供を持つ親にしては若すぎるんですよ。40歳ぐらいの役者さんならまだしも見た感じ20代の夫婦って感じじゃないですか。だから緑の服を着た女と写真の前にたたずむ二人をリンクさせるのは難しくも思えて解釈に迷うところでした。
3:21~子供から彼岸花を受け取る僕
光の先を抜けると階段の上に子供が立っていて僕は彼岸花をその子からひざまづきながら受け取ります。
階段の両サイドにはロウソクが置いてあることから死語の世界を感じさせ子供は神のような存在です。彼岸花を渡されたということは「君はもう死んでいるんだよ」という暗示にもなっていると解釈したわけです。
しかし、僕は生きている存在で、死の世界に踏み込んできそうな人をギリギリのところで救う存在だとするなら・・・ん!もしかして子供のほうが死んでるのか!!と思ったんです。
だって彼岸花って贈答花としては好まれない花じゃないですか。花そのものは綺麗ですが、どうしても不吉なイメージがつきまとう。
そんな彼岸花を持って立っている子供となると、その子供自身がすでに亡くなっているとも考えられます。
亡くなった子供の思いが彼岸花には込められていて、子供の思いも背負いながら僕はみんなを守るために戦うんだ!と教会で神にお祈りを捧げるような意味合いで捉えることはできないでしょうか。
みんなが黒い羊のときもあれば白い羊のときもある
1月28日月曜日に放送されたラジオ番組『ゆうがたバラダイス』にゲスト出演した小林由依と織田奈那は「みんなが黒い羊のときもあれば白い羊のときもある」と語りました。
屋上にそれまでの登場人物が集合して僕からの愛を受け入れますが、最後には僕だけが取り残され冷ややかな目で苦しむ僕を見つめています。ちょっと前までみんな黒い羊だったのに結局は白い羊に染まるのかと思わせるシーンでもあります。
でも「みんなが黒い羊のときもあれば白い羊のときもある」という言葉は意味のある言葉で、単純に白い羊に染まらずに戦う黒い羊という構図ではなくて、立場や環境が変われば自分だって気がついたら白い羊になっているかもしれない。あるときは自分だって黒い羊を指さして笑っているかもしれない。
だから誰が白い羊で誰が黒い羊かなんて白黒はっきりさせることはできないわけです。
白い羊たちの前で悪目立ちする僕。
苦悩を表現するダンスを終えた僕は白い羊たちに背を向け前を見つめる眼差しは、どんなに悪目立ちしようとも屈しないという覚悟を感じる目です。
彼岸花を抱えうずくまる僕は苦しそうです。でも直後に死を選択する人間の眼かと言われるとそうではないでしょう。
それなら僕はいつだって
それでも僕はいつだって
ここで悪目立ちしていよう
そう閉められている歌詞のMVの結末が自らが悪目立ちすることに耐えられず自殺するでしょうか。
まとめ
今回は書きながら前回の記事を否定している部分もあってなんだか複雑でした(;^_^A
自分としては本線は前回記事の考え方ですが、こういった解釈もできるなっていう部分をどうしてもまとめておきたかったんです。みなさんはどのようにお考えですか?
ぜひブログのコメントか、Twitterアカウント@hayaken80までご意見をいただけると嬉しいです。
解釈は自由だと思っているので「お前の考え方はここが間違ってる!」というよりも「こういう解釈もありますよ」みたいな話ができるとおもしろいと思います。
ではご覧いただきありがとうございました。
↓↓考察の続きはこちらです。
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