前回までの記事
1話 山城虹奏編『私のやりたいこと』
2話 山城虹奏編『動き始めた夢』
3話 南世菜(みなみせな)編『一度きりの人生だから』
仕事の帰り道、ふと夜空を見上げて月を眺める。真夏の熱帯夜には息苦しいスーツに身を固め最寄り駅から自宅までの道を歩く。どうやら月は満月らしく夜道を明るく照らしている。
あれ、もしかして私泣いてる?
それまであんなにはっきりと見えていた月がにじんで見えなくなって自分が泣いていることに気づいた。
私、なんで泣いてるんだろう・・・
泣きたくて泣いてるわけじゃないのに気がついたら泣いている自分に驚きながら、頭の中を乃木坂46の『シンクロニシティ』の歌詞「誰だって誰だってあるだろう ふいに気づいたら泣いてること 理由なんて何も思い当たらずに 涙がこぼれる」が脳内再生された。
心よりも先に体が悲鳴をあげている。このまま今の仕事を続けることなんて無理だって自分自身ではとっくに気づいていたはずなのに、自分の本音に蓋をして、続けることが正しい道なんだと言い聞かせる。でも、そんな自分を偽って生きることもそろそろ限界だよねって、もうひとりの自分が語りかける。
ああ・・・答えはもう分かっているはずなのに素直になれないのはなぜだろうと止まらない涙をぬぐうこともせず、上を見上げて涙がこぼれないようにわずかながらの抵抗をする自分がいた。
自分で言うのもなんだけど、私は親から見たら言うことを聞くいい子って思われてるんだろうなと思っていた。別にいい子ぶって生きてるってわけじゃなくて、ただ親の言う事に反論するだけの意志を持っていなかったというか、ケンカするぐらいなら言う事聞いていたほうが楽かなと思っていただけというか、絶対にこれがやりたいっていうこともなかった。
父は、いい学校に行って、いい会社に就職する王道の人生こそが一番幸せなんだと口癖のように言っていた。そういうありきたりな人生なんてつまんないよと内心で思いながら、二人の兄も大学を卒業したら当然のように就職していたから、いい会社に正社員として就職することは私の中では当たり前のことのように思っていた。
就職先は地元の銀行に決まった。銀行から内定をもらったと父に言ったときは今までに見たことがないぐらいの笑顔で喜んでくれて、私もやっと親孝行ができたかなと思って嬉しくなった。
内定をもらったお祝いにケーキを買ってくれたり、どうやら近所の人にも自慢げに語っているらしく私の知らないうちに私の就職先は近所ですれ違うおばちゃんたちがみんな知っているような状態だった。
そんな親だけでなく親戚や近所の人みんなに周知されてしまったことが世菜を苦しめた。
なぜなら、想像しているよりはるかに銀行員としての仕事はつらかったからだ。
最初に配属された営業部で聞かれたことはスマホの連絡先とLINEでやりとりをしている友人が何人いるかだった。連絡できるすべての人にうちの銀行に口座を作ってもらえるようにお願いすることが営業部の最初の仕事だった。
就活のときに保険会社に入った場合はこういうこともあると聞いていたけど、銀行でもこういう営業なんだなとうんざりしたし、たまに連絡が来たと思ったら勧誘だったら自分ならどう思うだろうと考えたら気が重くなった。
でもこうすることが社会人としては当たり前のことで、自分の我を押し殺すことが大人になることだって言い聞かせた。
最初はつらくても徐々に仕事を覚えて慣れてくれば考え方も変わるのかなと思っていたが、仕事のつらさは日に日に増していくばかりだった。
4月に入社して5月のゴールデンウィークの連休が終わるころには、休みが終わって明日から仕事が始まると考えるだけでつらくなった。でも、銀行員でいる私が父の誇りであることを分かっていたから、簡単に辞めるなんてとてもじゃないけど言えない。
そんな苦しい日々が続きながらも8月を迎えていた。
この頃になると、寝なければ朝は来ない。そんな気がして寝る時間がどんどん少なくなって慢性的な不眠症が続いた。朝が来ると気が重くて食欲はないし、会社に行けばまた地獄のような時間が始まると思うとそれだけで吐きそうだった。
そして、ある日の仕事帰り、気がつくと私はせき止めていたダムが決壊するように夜空を眺めながら泣いた。泣きたくて泣いてるわけじゃなかったから不思議な気分だったが、まぁ理由が仕事にあることは明らかだった。
もう限界だ。自分の中で何かが壊れていく音が聞こえる気がした。
銀行を辞める。その答えだけはすぐに決まったが、じゃあ、銀行員を辞めて私は何をしたいのか・・・これまで親の言う事を聞いていれば人生はなんとかなると思っていたし、実際になんとかなってきた。それが社会人生活を始めてみて親の敷いたレールが子どもの自分にとって幸せな道だとは限らないと知った。
お金がすべてじゃないと無邪気に言えるほど私は子どもじゃないけど、そのときの私はもうお金なんていらないから辞めたくて、ただただ逃げ出したかった。
このとき私は初めて自分の人生は自分で決めなきゃいけないんだと痛感した。
いつからか仕事の帰り道は涙が止まらないからわざと遠回りして帰るようになっていた。
でも、この日はちょうど最寄り駅に着く時間あたりで天気予報では大雨が降るらしい。傘を持ってくるのを忘れていた世菜はお母さんに駅まで傘を持ってきてほしいとLINEで送って、改札の出口で待ち合わせをすることになった。
駅に着いたときはまだ雨は降っていなかったからお母さんと合流したときも「結局降らなかったね。」なんて言いながら、受け取った傘をささずに自宅への帰り道を二人で帰ることにした。
お母さんとは家で顔を合わせれば普通に会話をする仲のいい親子関係ではあるけど、横並びになって歩きながら帰るなんて小学生のとき以来かもしれない。
最初は、もうお風呂沸いてるからとかそういう話から、今日の晩御飯の話をしたあたりで早くもネタ切れをして会話が続かなくなった。一緒に帰るなんて久しぶりすぎて何を話せばいいのか分からなかった。
するとお母さんから「今日の仕事どうだった?」と聞かれた。
世菜は「う~んとね・・・」と考えながら、今日もつらかったと言うわけにもいかず何と言おうか迷っていると、またいつものように涙があふれてきた。ちょうどそのとき雨が降り始めてきたことで、雨音が自然と泣き声を隠してくれた。
今度は世菜からお母さんに話しかける。「ねぇ、例えばの話だけど、もし私が仕事辞めたいって言ったらどうする?」
「どうするも何もお母さんが仕事するわけじゃないんだからそんなの世菜が決めることじゃない。」と笑った。
「でもさぁ、やっぱりお父さんに言ったら怒るよね・・・」世菜は少し怖がりながら答える。
「お父さんが? 怒るかって? そうねぇ、怒るかもしれないわね。勉強して、いい学校に行って、いい会社に就職するのが正義みたいな考え方してるし、世菜が銀行員になるって決まったときもあの人嬉しそうにしてたもの。」
「やっぱり・・・そうだよね。」お父さんは少しでも私が好きなことをしようとすると反対してくるようなタイプで、辞めるなんて言ったらどういう反応をするか簡単に想像がつく。
「でもね、そんなこと考える必要ないのよ。」強まる雨音にお母さんの声はかき消されそうになりながら、でも私にはハッキリと聞こえた。
「たしかにいい学校に行ったほうが選択肢は広がるし、いい会社に就職したほうが生活は安定するから、お父さんの言ってることも間違いじゃないと思うけど、それがみんなにとって絶対幸せかっていうとそうとも限らないというか。世菜はまだ若いんだからいろんな仕事経験してみたらいいのよ。それにあなたの人生なんだからお父さんの期待に応えようとしなくていいんだから。」さすがお母さんはお父さんのことよく分かってるなと妙に感心してしまったし、私は私の人生を生きていいとお母さんに背中を押してもらえて嬉しくなった。
気がつくと駅から自宅までの最短ルートではなく、いつものくせで遠回りの道を選んでいた。
思えば最近乃木坂46の『帰り道は遠回りしたくなる』のMVをよく見る。
このMVのストーリーは、当時この曲のセンターを務めていた西野七瀬が通学バスに間に合って乗れたか、乗れなかったかで2つの人生が同時に描かれている。その後は、アイドルとして活動する未来と美術の道をがんばる未来に分かれ、どちらの道に進んでも同じように苦難があっても輝ける場所があることを示してくれている。
つまり、どちらの道に進むことが正しいなんて答えはなくて、どちらの道を選択することは間違いではなくて、結局は後悔のない道を進むことが一番てことなのかなと世菜は理解していた。
そして、もし私に銀行員としての人生ではなく、アイドルをやっていたらどういう人生が待っていたんだろうと考えていた。
そこでお母さんに聞いてみた。
「ねぇ、もし私が銀行員を辞めてアイドルになりたいって言ったらどうする?」
「それはまたお父さんが怒りそうなことね(笑)」と言ってお母さんは笑った。「でもなんかかっこいいじゃない。元銀行員からアイドルに転身なんて言ったらすごいかっこいいと思う。」
このときお母さんがいった銀行員からアイドルになったらかっこいいという発言は世菜の心に突き刺さった。アイドルといえばかわいいというのが当たり前に思っていたけど、二人の兄と一緒に育ってきた世菜は兄の影響もあって『進撃の巨人』や『地獄楽』といった戦うかっこいい作品が好きだった。
だから、かわいいよりかっこいいのほうが世菜の心を動かした。
そうこうしてるうちに家に着いた。雨に濡れた体を拭いてお風呂に直行すると、お風呂に浸かりながらお母さんとの帰り道のことを思い出していた。
本音ではずっと前からアイドルになりたいっていうのが心のどこかにあったけど、歌もダンスも未経験だし、就職することが正しいって思って生きてきた。でも、自分の本心に気づいてしまった以上、このまま銀行員を続けるなんて無理だってことは分かっていた。とはいえ、やっぱりお父さんがどういう反応するかなと思うと気が重い。
お風呂から出てリビングでテレビを見ているとお父さんが帰ってきた。お風呂から出て食事をしている頃合いを見計らって世菜の今の気持ちを伝えた。
「わたしさ、銀行辞めようと思うんだ・・・」
するとお父さんはグラスのビールを飲み干してから「そうか。分かった。」とだけ返事をした。怒られることを覚悟していただけに、その反応はあまりにも意外だったが、続けてこう伝えた。
「でね、その・・・アイドルをやってみようと思うんだ。」初めて父の選んだ道ではなく自分自身で決めたことかもしれない。
お父さんは一瞬だけ寂しそうな顔を見せたあとに「やるなら中途半端じゃなく真剣にやりなさいよ。」と否定されなかったことが驚きだった。
会話はそれだけで世菜は2階にある自分の部屋に戻っていった。ちょうど自分の部屋に着いたタイミングでお母さんからLINEが届いた。
「あなたが仕事を始めてからつらそうにしてるのを見たお兄ちゃんたちが、お父さんに対して世菜が辞めるって言っても怒らないであげてほしいって言ってたの。だからお父さんもようやくそのときが来たかって感じで覚悟はできてたんだと思う。お兄ちゃんには感謝しなさいよ。」
へぇー兄貴も結構いいところあるじゃんと思ってスマホの画面を見ながら笑顔になった。続けてお母さんのLINEにこう返信をした。
「わたしアイドルになる。」
「聞いてたよ。がんばりなさいよ。」
「うん。」
翌日には職場に退職の意向を伝えて月末での退職が決まった。それは同時にアイドルになることに動き始めた瞬間でもあった。
これはあとになって分かったことだけど、家族の中では私がアイドルになりたいと思っているかもしれないことは共有されていたらしい。アイドルになりたいなんて一度も言ったことないのに事前にお父さんへの根回しをしてくれていたからお父さんは反対しなかったんだって。自分でもアイドルになりたいって気づいてなかったのに家族にはバレバレだったと思うとなんか恥ずかしい。
歌もダンスも完全な素人だから不安もあるけど、社会人として経験した時間があるからこそ私と同じようにつらい思いを抱いている人を助けたい。私がアイドルに救われたように今度は私が救いたい。
そんなアイドルになるんだ。一度きりの人生だから後悔しない生き方をするって決めたんだ。
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